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セミナーC
「デジタルが映画を変えられるか?!」

石井聰亙(映画監督)
押井 守(映画監督)
塚本晋也(映画監督)
コーディネーター:武藤起一(映像環境プロデューサー)

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■SeminarC


石井聰亙氏、押井 守氏、塚本晋也氏(左から)

●武藤:テーマが「デジタルが映画を変えられるか」で、実際に皆さんの方がよく知っていると思うんですけど、デジタルが映画を変えつつある。もうハリウッドにおいては変えられるかじゃなくて、変えちゃったと言ってもいい状況になっていると思うんです。ただ日本はどうなるのかという話になると、アニメはともかくとして、実写 の映画となるとまだまだデジタルをうまく使った、あるいはデジタルによって映画が変わったという作品は本当に数えるほど、皆無かも知れないんですけども、非常に少ないんじゃないかって思います。
そういう意味で今日のテーマは、映画が変えられるか、デジタルが日本映画を変えられるか、デジタルによって日本映画がこれから変わっていくんだろうかみたいな、そういう視点を作り手のお三方に話を聞いて、それをどんどん進化させていきたいと思います。

●石井:自分の映画作りにおいて、今まさに製作中映画が2本あるんです。『ELECTRIC DRAGON 80000V』と『五条霊戦記』、それはほぼ全面的にデジタルを取り入れています。ただよくよく考えると、デジタルで何やっているかというと、アビット編集とか、アビット編集というのはコンピュータに全部の画像を取り込んで、コンピュータの画像上で全部編集をする。データ上で。
いわゆる最近、コンピュータ、パソコンとかのソフトで発売されて話題になっているアップルでいうとファイナル・カットプロとか、アイマックDVに附属で付いているんですソフトとか、そういう編集機能がパソコンでできるっていうのがあって、まさに今回のプロデューサーである掛須さんが第一人者で、その人に編集をやって貰っているんですけど、『ELECTRIC DRAGON 80000V』からはその編集を取り入れた、あるいはCGデジタル、いわゆるコンピュータグラフィックスによく特撮とその合成ですね。これも前から古賀信明さんとやっています。
そういうふうに全面的に日本の映画ではコンピュータを取り入れている。デジタルを取り入れているので自分にとっては、間違いなく変わってきているんです。私は8ミリから映画を撮り始め、全部自分でやっていたんです。編集も音も全部やっていたし、どんどんそういうことに近づいてきている。だからやり易いですけどね。

●押井:日本では今アニメの方はほとんどデジタル化されつつあるんです。ぼくがよく仕事しているプロダクション・アイジーは、ほとんど完璧にデジタル化されちゃいましたから、逆にセルを使って撮影台の上にのっけてカメラで撮影するっという方式ではアニメーションはほとんどできないです。基本的にもうセルを作っている会社、元々一社しか作っていないですけども、そこは廃業っていうか、辞めちゃうという話もありますし。絵の具ももう作らないっていうふうになっています。今後もセルアニメをやろうと思うと、セルとか絵の具とか全部輸入することになっちゃうんです。日本では、アニメーションというのは元々すごくシステム化されている世界なんで、どこのスタジオへいっても、基本的な映画の作り方、アニメの作り方は変わらないんです。同じ機材、同じ素材、同じシステムで作っています。だから変わる時はいっぺんに変わらざるを得ないんですよね。
つまり、このスタジオで仕事していて間に合わない時は、こっちのスタジオの力借りたいとか、お互いに貸し借りで仕事していますから、同じフォーマットでないと業界が成立しないんです。だから一部でデジタル化が始まって、あるパーセントを越えた時に一気になしくずし的に全部変わらざるを得ない。そうなると、アニメ業界自体が生産性を保てないですよね。もちろんその過程で淘汰されちゃうという部分もあるわけです。設備投資もできない会社が廃業、倒産、夜逃げとか、そういうことが現にあったりするわけですけど、そういうことで再統合って感じです。
だから実際にデジタル化が始まったら、ぼくが『攻殻機動隊』という作品やっている時に、世の中であれはデジタルアニメーションだといっている人が一杯いるわけですけど、実はセルアニメですから、それをやっているアイジーという会社でそろそろデジタルの臭いがするんだけど、どうしようかという相談を受けた時に、「まあどんどんやれ」っていう話をしたんです。当時ぼくのいっているスタジオで、デジタルといっても、クワドラが2台あっただけ、『攻殻機動隊』が完成した頃でも、まだクワドラ2台で細々と実験的なことをやっていただけですよ。それが今や完璧にスタジオの中でデジタル関係の人数が5割越えちゃっていましたから。で、あそこの会社でアニメーションやらせてくれっていう話になると、デジタルでしか対応できませんから。そういうところまで3年位 しか掛かんなかったです。
ただ相変わらず実写の方はなかなかデジタル化されないで、編集とか巻き取る以前に、まず音響の方から始まったと思うんですけど。音楽の世界はもう完全にデジタル化が終わっていますから、映画の音響作業だけが一番最後までなかなかデジタル化されなかったんですけど。最近はデジタル化せざるを得ないっていう、そういう小屋が増えてきています。それに例えば、その死ぬ テープとか、なかなか使えないとか、やっぱりこれもなくなっちゃうんじゃないかとか。スタンベックなんかにしても作っていせんから。今残っているのはプロツール使って、デジタルでしかやらないようになっています。映画っていうのは一番最後に残ったんです。音楽の世界はとっくにデジタルになっています。音響の世界もぼちぼちデジタルになりました。CMなんかで盛んに使うわけですから、そっちの方が実入りがいいですから。映画作品を頼んでも予算安いように、延々と粘ってもいいこと一つもないわけですから。
景気のいい音楽の世界とかCMの世界からどんどん需要があれば、スタジオはそれに対応します。だから日本で撮っている実写 の映画だけが最後に残ったというのが状況だと思うんです。それでもアビットを使っているとか、音響の仕上げをプロツールでやったりとか、わりと普通 になりつつあります。いずれ現場がそれでしか対応しない、そうなってくるなだろうと思うんです。
あと残るのは映画現場です。そこの部分が最後までなかなかされないだろうな。最大の原因はお金が掛かるということ。それを救っていかないと世の中で受け皿がなくなるというふうになれば、日本の政治経済と一緒で、結局外圧でしか変わらないものが最後まで残るわけですから、最後は力ずくで変わらざるを得ない。それがアニメと実写 におかれている状況だと思うんです。なぜ、アニメーションが一足先にデジタル化されたかというと、一つには安定供給せざる得ない状況があるから。つまりアニメの方が受注量 とか多いわけです。絶えず山ほど作っていますから。コンスタントにラインとして作っているわけで、企画がまとまってから「さあ人を集めて作ろう」じゃなくて、絶えず動いているんです。隙間を埋めるために全部受注しているわけですから、工場の生産ラインと一緒です。安定して先の見通 しが持てたっということと、元々アニメーションの作り方っていうのはデジタルでものを作っていくという作業にとてもよく似ているんです。
あるプロセスを作り上げてプロセス毎に処理を重ねていって最終的なものを目指していくと、それで不都合があった場合にはワンステップ前のプロセスに戻って修正するという。基本的にはCGやっている人とかフォトショップ使っている人は一番わかると思うんですけど、レイヤーを重ねて絵を作っていくわけですね。そのレイヤーというのはアニメの世界ではセルを重ねていくことですから、現場の人間にとっても非常に理解し易いんです。それをまた結合してさらに違うレイヤーに乗っけたりとか、ワンステップ前に戻ったりとか。アニメーションで映像を作っていく作業というのは基本的にはそういうプロセスのことなので、非常に頭でわかりやすかった、対応し易かったということがあると思います。
だから『攻殻機動隊』というのはオーソドックスなセルアニメであって、ただビデオエフェクトやCGとかを比較的多く取り入れた。それでもせいぜい100カット位 なものですけど。たまたま扱っている世界が非常にデジタルテクノロジーというのを描いた世界だったので、デジタルアニメだということになったわけですけど、実は非常に古典的な手法で作ったわけで、個人的には何故か分かんないけどデジタルというのに引かれちゃって、世間ではそのデジタルアニメの代表選手みたいなことになったわけです。別 にデジタルそのものに興味があったわけじゃなくて、あくまで映画に興味があった結果 としてデジタルに興味を持ったに過ぎないんです。だからその辺はしょっちゅう誤解されているわけです。今日も、デジタルが映画を変えるかどうかっていうふうなことを、現状では変えざるを得なくなっているわけですけど、問題の考え方の順番がちょっと違うんじゃないかと思っています。つまり、映画という確定された世界が予めあったと想定して、デジタルというものが新参者として入り込んできて、それが映画を引っかき回すんじゃないか、革命起こすんじゃないかっていう考え方自身がちょっとおかしいんじゃないか。
映画そのものは、別に確定されたわけでもなんでもなくて、たかだか100年しかない歴史の中で、一つの表現として確定されているわけがないし、映画というのはその確定されていない部分に最大限のよさがあるわけですから。
だからここにいる三人が全部勝手に別の映画を作っていることがどうして可能かというふうな、要するに、デジタルがでてきたから映画が変わらざるを得ないということじゃなくて、映画は絶えず変わることを欲しているんです。そう思っていない人間が山ほどいるだけの話であって、それを力ずくで変える力をデジタルがたまたま持っていたということに過ぎないと思っているんです。別 にデジタルでなくても、今まで映画は音声が付いたり、色が付いたりすることで強制的に変わらざるを得なかったんです。それを拒否することももちろんできます。未だに映画を撮っている人がいてもおかしくないし、いや俺の映画には音はいらないんだという人がいても全然構わないわけです。
でも、映画っていうのは商業性っていうものを抜きにしては成立しないわけですから、それいうとやっぱり、デジタルっていうものは世の中の人が待望すれば、あるいは産業としてそういうものが望まれたとすれば、それはもう抵抗すべきもないわけで、全体的に構造的に変わっていかざるを得ない。
映画っていうのは基本的にはそのテクノロジーの上に成立する表現だから、テクノロジーの部分でなにか変更されれば、映画は直ちに変更されてしまう。それは当たり前の話だと思うんです。だから問題になるのは、その部分じゃなくて、映画は「どう変わるべきなのか」ということだけが常に問題なので、何が変わるとか、いつ変わるとか、そういうのはどうでもいいことだって個人的には思っています。

 
 

塚本晋也氏(左)、武藤起一氏(右)

●塚本:ぼくの映画って本当に極端なアナログの方法でできていて、『鉄男』という映画が鉄と人間のテーマなんで、テクノロジーのことに興味があるんじゃないかと、よくゲームの雑誌とかが取材にきたりしますが、ぼくは全然ゲームやったことありませんし、編集も8ミリの時は手回しでフィルムを回して撮って切ってまた貼りつけるんですけど、『鉄男』から『鉄男II』『東京フィス』『バレット・バレエ』とずっとその機械で未だに手回しでちょん切っては繋いでいるんで、本当にデジタル的な人間ではないんです。
例えば、映画の内容も『鉄男』の撮影というのも全部コマ撮りっていうアニメーションみたいなもんですけど、一コマずつ動かしてはカシャッと撮るという極めてアナログ的な方法で撮っていて、それで自分に面 白さを見出しているもんですから、なかなかそこから離れられないんです。
それじゃ、デジタルに興味ないのかというと実はすごくあるんです。昔コマーシャルをやっていたんだけど、それを辞めて自主映画作りやって、やっぱり今のデジタル技術ってどうなんだろうと興味があるのでコマーシャルの仕事をたまに引き受けるんですけど、こんなとこまできてんのかって分って、すごく面 白いなって思っているんです。
具体的には、なんでデジタルが自分ですごい必要だなあと思っているかっていうと、一つはやっぱり編集なんです。先ほどお二人の監督がおっしゃったように、手回しでずっとやっていると、若いうちはいいんですけど40にもなるともう疲れるんですね。ライトが眩しくて目も痛いし。ずっと編集狂みたいにやっているので、一日中朝から見ているので、ぱっと離すと目が光でちょっと焼けているみたいになって、また神経もいかれてきて疲れるので嫌だなあと(笑)。あと編集を手回しでやっていると、全部自分でOKだしからやっているので、普通 は撮影している間に編集の方が順番に並べておいてくれて、あとで監督が入るんですけど、ぼくは全部でき上がったものを自分でちょん切ってOKだししてやっていくんです。
最新作の『バレット・バレエ』も4か月から5か月位編集掛かっているもんですから。そうすると、あとぼく定年まで20年なんで、ざっと考えて映画作れる本数が少ないんです(笑)。これはまずいなって思って、そんな時にアビットという編集機だと早いですね。コマーシャルの時も体験したんですけど、シュミレーションをしたい、細かく編集したい、編集してこういうふうにしたいっていうのが、ぱっぱっとできちゃうんです。
機械が苦手なぼくも、もうこれがないとちょっと先の人生有効に使えない。時は金なりだという感じで(笑)。やっぱり貧乏だからって、貧乏により掛かってばっかりもいられない、アビットみたいな編集機はやっぱりちょっと今後とも使っていきたいと思うんです。
大枠からいうと編集はまずそんなことですごく必要に感じているってことが一つと、あとは映像の表現なんですけど、よく雑誌とかでデジタルの表現になったら絵がつまんなくなったみたいなことを言って、デジタルを真面 目にやっていらっしゃる方に「おめえなんか何にも知らないくせに生意気言ってんじゃねいや」と一回言われちゃったんですけど、「そうだな」と反省しているんです(笑)。でもやっぱり最後には監督というか、作り手の才能というか感覚の問題なので、その感覚をいいふうに使えばいいんです。
キャメロンとかスピルバーグの使い方は見ていても「すごい」と思いましたし、一方で他の映画ではデジタルを使って嬉しさのあまりに使い過ぎて、どうもダイナミズムを感じなかったものです。昔『ポセイドンアドベンチャー』なんかで人間が逆さまにした船から落っこって、照明の人がピカピカっとやって水がバァーっときて、それで余りうまくいかなかったという感じが映画の醍醐味なんですけど(笑)。デジタルでやると波のしぶきまでうまくいき過ぎちゃって、机の上でやっているようなものに見えたものですから、そのダイナミズムが映画から消えた気が一瞬してたものです。  ぼくの場合、そのコマ撮り的なアニメの方法と、ちょっと普通使うという部分じゃないところでデジタルをうまく導入して、デジタルとアナログがうまく合体したような映画ができたらいいなあと思って、編集は絶対必要です。絵もそんな使い方で必要。大きく分けると、その2つの方向で使っていきたいと思っていますけど。
編集以外にデジタルという部分でいうと、昨年公開した『双生児』でのCG合成。現代の映画で双子が出てきてCGも使っていないじゃ、ちょっとまずいんじゃないかなあって感じがあって(笑)。
昔『ヒロコ妖怪ハンター』を作った時に、東宝のすごい優秀な方々にやって頂いて、本当に現場には不平はなかったんですけど、沢田研二さんが二人出るシーンがあった時に、画面 の真ん中に木を立てるんですね。それで画面を2つに切り易いわけなんですけど、そう東宝の方がおっしゃった時に「がくっ」ってきた記憶があって、それって何十年も前に見たぞ。こんな方法でやるのかと。嫌だってはっきり言えなかったし、最後に短くして、ちょっとしか使わなかいという方法で逃げました。
そんな方法でさらに10年経った現代においても、その方法をまた使うわけにはいかないんで、双子の映画を作るからには、やっぱりグルネンバーグの『戦慄のきずな』でしたっけ、凄く巧みな双子の使い方していますから、あんなにたくさん使わないまでも、ちょっとああいう感じが必要だと思って、結局2カットだけ「もっくん」が二人首を締めるシーンが、大事な全体で2か所あるんですけど、そこだけやりました。特に後半は一点豪華主義じゃないですけど、首を締めてカメラがその締め合っている二人を回りたいっていうことを、そのデジタルの方と相談してやったのが一つと、途中はわりと古い方法なんですけど、これはかなり有効で、ぐるって回った方は背景と人物の整合があんまりうまく撮れていなかった気がしますけど、途中で出てくるわりとシンプルに「もっくん」がいて、その後ろに「もっくん」が首締めて「ぐっ」と顔を出すのは、かなりうまくいっていましたね。全く本当に二人いるように思いましたし、昔の合成、フィルム上の合成だと二人は完全にフィックスの中で人物動けないんですけど、人物自体が動いてもカメラは揺られないんですけど、全体を合成したあとでカメラ自体も揺れているように、あとで加工できたりするんで、相当な臨場感ができたので、これは良かったなあと思いました。

●石井:さっき塚本君がすごくいいこと言っていたんだけど、押井さんも言ってたかな(笑)。どんなにデジタル化が進んでも、なんというのか映画の本質みたいなものはあんまり変わらないと思うんです。非常にアナログなもんだと思うんだけど、そこはちょっと押井さんの言うことと違うのかな。なんか常に映画って変わらなくちゃいけない、変わるのが映画だと思うんですけど。作り方の根本みたいなものは、なんか非常にアナログ的なとこがあって、それはおそらくどんなにテクノロジーが発達しても、映画というものは何かということもちょっとあるんだけど。
でかく映写してある臨場感のもとに、みんなが興奮したり、新しい感動を得たりするっていう体験があって、それ自体は普遍的なことは変わらないと思うんです。それは例えばアニメーションだとしても、実写 とは分けられますけど、あんまりその違いを気にしていないんでよ。面白ければいいっていうか、面 白いっていうのは何か新しい体験があって、しかも感動があるっていうのかな。ぐっとくる感動があるみたいな、そういうものが映画だと思っています。
昔から音がなかろうがあろうが、色がつこうがデジタル化されようが、アニメーションにそれがなろうが、本質はそんなに変わらないと思っています。それをアナログと呼ぶのかよく分かんないけど、ある種のそれに関わっている人達の心の葛藤、役者さんだったり、俺はこれを見せたいんだという、芸として見せたいんだというのが1時間半あるのか、あるいは撮影の技術として見せたいのがあるのか、あるいはたっぷり音楽を聞かせたいという1時間半なのかね。ある感動と体験を作るっていうのが映画だと思っているんですけど、その体験は変わらないと思っている。だけどデジタルによってなんかやっぱり日本映画も変わらざるを得ないというか、どんどん変わっていると思うし、俺自身はすごい歓迎、そのスピードが取り戻せるから。
日本の映画館の小屋の音響が悪過ぎる、音が小さいし、臨場感がもの足りないんです。あと映画の予算が少な過ぎて全カットCGでできない。だったら違う方法でやるとか、スピードが出せないんだったら、中途半端なことが嫌いなんで徹底的に遅い映画を作ってやろうとか。映画で普通 のものを見せられてもつまんない。それはテレビで見てりゃいいじゃない。映画はものすごい臨場感のある新しい体験を見せてくれるところ、それによって本当に心を揺り動かされる脳髄の奥が刺激される体験を与えてくれないとね。
だから個人的には本当にアナログ人間なんで、全くデジタルのこと分かんないんだけど。そのスピードはすごいと思うから、これから必死に取り入れようと思うし、実際に今取り入れているところだし、それは急速に本当に進むかも知れないですね。例えばフィルムで撮るのは日本映画ではまだ当たり前だけど、本当にビデオで撮れるということになる可能性は大きいですよね。それによって、じゃそれが映画じゃなくなるかというと、これ全くそういうことでないと思う。映画の本質っていうか、そこでフィルムで撮らないから映画じゃないっていうことだと、その人はなんか映画の本質とちょっとずれているようなことをいっているように思いますけども。

●武藤:今まで話の中でアニメはもう完全にデジタル化が進んでいるっていう話があったんですけど、映画においてもポスプロの部分ですね。編集とか音響、音の部分、つまりポストプロダクションと言いますけど、仕上げと言われているところがどんどんデジタル化が進んでいる。昨日、押井さんとアニメの作業って全部ポスプロみたいなもんだと話したんです(笑)。 ということで必然的に先にどんどん進んじゃう。ところが実写の映画の場合、撮影がやはりまだデジタル化という現実には至っていない。劇場もまだそうなっていない。
ところが昨日のフォーラムを聞かれた方は分ると思うんですけど、浜野先生のレクチャーで、ルーカスが『エピソード2』というのを来年から撮り始めて、これ全部撮影からデジタルで一切フィルムを使わずに、公開においてもGLPというシステムを昨日『スターウォーズエピソード1』でロスで初めて公開されて。実は『ELECTRIC DRAGON 80000V』を見せたのは、そのGLPのシステムだったんです。非常にきれいで、意識して見ていた方は分ると思うんですけど、それもデジタルになり始めている。そんな中で奇しくもフィルムで撮ることの意味みたいなものあるんだろうか。

●石井: 35というのは劇場映画とかCMで良く使っているプロ用の大きなフィルムですね。ものすごくお金が掛かる。それで撮った画像と俺が家庭用のカメラで撮った画面 とを流しても違いが分かんない位、逆に、ああいうシステムで流すと同じ位きれいなんですよ。どちらが味があるかっていうことになるんだけど、ちょっと驚きました。そしたら35で撮る必要があるかっていうことになってくるよね。題材とかによって違うし、35の方がやっぱりいいんです。何故っていうと、いろいろ情報量 の違いだとか。ただ家庭用のDVと35って予算的にものすごい差があるんです。10倍位 違うのかな。おそらく全体のコストからするとね。極端にいうと1000万円で撮れる映画が1億になっちゃう位 違うかも知れないんです。1000万円だったら個人で作れるかも知れないけど、1億は個人では作れない。その場合は選択になると思うんですけど、10倍の良さがあるかどうかっていうことですね。

●武藤:塚本監督なんかフィルムにこだわってきたんじゃないかな。さっきの質感の話もあったじゃないですか。例えばそういう時代になっても、フィルムで撮らなくてもいいっていうふうに割りきれるんですか。

●塚本:今のところは、ルーカスみたいにこういうことが必要だから技術の方まで一緒に変えるっていうような感じがあんまりないんです。あるもので何とかしようと思う方なので。そうなると、今のところはフィルムの方が好きです。本当に極端なこというと8ミリフィルムなんかすごい好きですし、質感がフィルムの味わいがあってきれいで好きなんです。なんか玩具の飴みたいな感じがして。そんな感じですからフィルムに対するこだわりっていうのはあるんです。
ただ、その周りのシステムの方が良くなっていったら、多分そこでデジタルの画面 で自分の好きな絵を追求すればいいんですよね。だから別に問題ないという気がします。本当の気持ちで言うと、まだ大事にしたいですね。周りの様子を伺いつつって感じで。今の状態だったらやっぱりフィルムの方、ただビデオでちょっと作ってみたいと思っていることもあるんです。
ただ今のところ、そのビデオでえらい照明頑張って、フィルムと同じような質感を追求しようと思うよりは、ビデオの臨場感というか、『パレット・バレエ』では白黒にしたのも、少し事件映画の臨場感っていう一つの狙いを持って白黒にするんだけど、もしビデオにするんだったら、ビデオの臨場感というのがあるんで、なんか独特の臨場感の映像ができると思うので、1カットも極端に長く回してもいいわけです。フィルムだと、何分かですごい高いんだけど、ビデオだと60分撮っても安いですよね。ですから逆に『鉄男』作った時みたいな自主映画の気分になると、もしビデオで劇場公開できるんだったら、「これすげえ安くできるぞ」と思ってます。
極端なこというと10万円で劇場映画できるかも知れない。ちょっと考えてるのは、東京でもビデオプロジェクターで上映できる映画館が2館あるんで、そういう映画館に、とても個人的な、しかもエンターテイメントな映画を作って編集して上映すると、自分の手元で引き寄せて作業できるので全部現像所を通 さないでできちゃいますから。
イマジカとかはえらく高い請求書がくるんで、それだったら自分で全部手元に引き寄せて作って、それで劇場でやれば10万円位 でできるんじゃないかと思うんですけど。だって1本60分でビックカメラで安く売っているし、カメラも30万位 で買えるんです。それで作りますよね。そして先ず劇場で公開できます。だから『鉄男』と一緒の条件ですね。全国ロードショーじゃないわけですから、それで今度ビデオ化するとします。そこに作品としての商品価値があったら、フィルムなくてもビデオがお父さんとしてあるわけですから、そこから子どもを作っちゃえば、無茶苦茶安くできるんで、これは効率いいぞって実は思っているんですけどね。

●武藤:『アヴァロン』の話なんですけども、あれはフィルムで撮っていらっしゃるんですね。やっぱりそれはフィルムっていうのは別 に意味はないんですか? 押井:情報量っていう意味でいうとフィルムには叶わないんです。DVにメガピクセルとか、100万画素とか 200万画素といっても高々そんなもんであって、35のフィルムの乳剤の世界っていうのは分子レベルの世界ですから、どう逆立ちしたってビデオがフィルムに勝てるわけはないんです。
ただ、そのフィルムっていうのは、非常に特性上あとで加工しにくい。もちろん、ラボワークで粒子を出したりとか、焼き込んだりとか、色を寄せたりということは当然あるわけですけど、デジタルの良さっていうのは、ラボでやると全般 に掛かってしまう。デジタルだとある部分だけを特殊な色調に変えることが非常にやり易いわけです。全部同じレベルでデータが整然と並んでいる世界がデジタルですから。アナログは、ある部分をいじると全体が変わってしまう。考え方の違いで言えばそういうことなんです。その素材のレベルということなんです。現場で撮影するっていうことは、素材を作り出す作業というふうにぼくは思っているんです。
多分今までの映画監督は、ある種の現場主義者で、だから現場で一種の完璧な状況を作り出してそれを記録する。撮影でなくて記録。言ってみれば全部撮影現場のドキュメンタリーなわけです。一定の条件を作って、それが芝居なら芝居が完璧だと思えた瞬間にそれを記録する。それをあとで編集するっていう過程があるにせよ、その段階で既に表現として固定されてしまう。あとは多少現像で色を調整したり、明るさを調整したりという作業があるにせよ、基本的にはそこで映画は固定される。それが非常に冷たいから不満だったわけです。
学生時代に映画作っていた頃はそれしかなかったから当然直ぐに作ったわけです。ぼくは8ミリから始めた人間ですから。しかし、アニメーションの世界は、幾らでもそのステップに戻れるんです。素材があるから1回撮影しても違ったなと思ったら、その素材のレベルに戻って、その素材も幾つかのレベルに分れているわけですから、セルが何枚か重なってて、背景があって、ブックがあって、例えば背景が気に入らなければ背景だけ書き直して手を入れたりとか、違う背景を持ってきたりとか、それでその同じカットのセルをのせてもう1回作り直したりとか。逆もあります。途中で演出が介入してカットを変えていく、表現を変えていくっていうレベルが無数にあるのがアニメーションの世界なんです。
そういうものの作り方だったので、実写をやり始めた時に、今ここで全てを決定しなきゃいけないというものすごく不自由な世界なんだと思ったんです。昔は平気でやっていたのにもかかわらず、なんでそうなんだって。だからデジタルということを前提にして撮影する場合は、少なくとも最低は空舞台を撮っておく。フィックスであればカメラワーク、動いちゃうとモーション・コントロール・カメラという、同じスピードでカメラを動かす特殊なカメラがないと撮る意味ないんです。 フィックスドだったらとりあえず空舞台を撮っておく。するとあとで人間を出したり消したりする時に、ものすごく楽なわけです。あとは傷を修正したりとか、エフェクト入れたりする時にも空舞台があるかないかで作業が全然違うわけです。 あるいは人間が動いていれば空舞台はいらなかったりするんですけど。
そういうことを考えて、実写というのもアニメーションと同じように、演出上の選択肢を確保してからものを書き作りたい。現場でやるのは映画の表現を完成させることではなくて、素材を撮ってくる作業だと考えたいし、考えてきたんです。極端に言えばあとで考えようということでも構わないんです。あとでどういうイメージにするかは先送りしてもいいんじゃないですか。
もちろん最初に想定したイメージがなければ現場でものが動きませんからやるんですけど。でもあくまで、これは仮の姿。そういう意味で言えば映画は最後まで仮の姿なんですよ。ぼくは1回作った映画は絶対触れない主義なんですけど。やるときりがないからやらない主義なんです。 1回だけデレクターズカットを作らされたことあって、『オンリーユー』という作品でやったんですけど、やって後悔しました。それは仕事でやれっと言われたからやったんですけど、必要ないと思って切ったものを戻してもやっぱりつまんないですよ。
映画は一旦世の中へ出したら触れない。違うと思ったら、次の作品でやればいいと思っているので自分が作って終わったものは基本的に見ませんね。 ただ作業中は、幾らでも元のプロセスに戻って、フォトショップでいう『アンドウ』みたいなものを無限にやりたい。そうすることで、本来目指すものに近づくっていうことも一つあるけど、一つは思いもよらなかったものを作り上げていく可能性もあるんですよ。素材が上がった段階で考える。さっきの塚本さんみたいに、そのあるもので考える。現場で撮った素材だけじゃなくても構わないですよ。今度の『アヴァロン』って映画ではそういうつもりで35を選んだんです。
基本的に加工していくことは、要するに劣化していく過程なんです。デジタルといえども、データにした段階で基本的な劣化があるわけで、そこから先はデータ上の劣化はないんです。それもどういう解像度でデジタルとするかというレベルで必ず劣化があるわけです。ぼく等がその『ガルム』という無くなっちゃった作品を作った時に合言葉にしていた言葉があるんです。それはイメージの劣化をいかに防いで合理的にものを作るか。イメージの劣化は、最後まで映画につきまとうんです。現場的に言うと、監督が頭に考えた以上の絵にはならないんです。それを苛立ちながら耐えているのが監督なんです。それは多分みんな思いは同じだと思うんです。いろんな要素でイメージは劣化するんです。光が違うとか、曇ったとか、役者の表情が今一冴えないとか(笑)。
いろんなことで、いいイメージは劣化していくんです。自分が考えていたものが、どんどんぼろぼろになっていくのを耐えながら仕事しているわけで、それをどうやって救済できるか、今のシステムだとどうしても限界があるんです。だからデジタルというものが現場的には、ぼくの立場から言うと役に立たない。 いいなと思うのは合成したり、恐竜が出てきたり、そういうことだけじゃないんです。今は過度期だから、どうしても目につくものが最優先されるし、一番お客さんに分り易いものから使われていくわけですけど、そういう現実に存在しないものからスクリーンの中で平気で出てくるとかね。そういうことは直ぐ飽きちゃいますから。それ自身は『ジュラシックパーク』みたいなものだって。恐竜ばかり見たいわけじゃないわけです。イメージの劣化を防ぐ手段として、データ上で操作するっていうことは非常に有効です。
要するにプロセスを繰り返せるし、ステップは戻れるし。組合わせをまた変えることもできます。ちょっとレイアウトいじることもできますから。そういうことで非常に有効なんじゃないかと。そういう目につかないような、微妙なところでデータを使うと実際に威力があります。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(セミナーでの発言から一部を抜粋して掲載しています)
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