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セミナーC
「文ガクと音ガク」

高橋悠治(音楽家)
辻 仁成(作家、ミュージシャン、映画監督)
山川健一(作家)
コーディネーター:萩野正昭((株)ボイジャー代表)
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■SeminarC

萩野正昭氏

●萩野:「文ガクと音ガク」というお題をいただいたのですが、ガクがカタカナなので、少しくだけてもいいのかなと思います。正面 切ってこういう話をしても大変ですし、講師の方にも気楽にお話いただくということで打ち合わせをしています。ざっくばらんに、まず山川さんからお願いします。

●山川:今日は若い方が多いようなのでロックの話をしようと思います。先日、名古屋のある芸術大学で集中講義を頼まれて5〜6時間しゃべったのですが、音楽の話になり、ローリングストーンズを知っているか聞いたところ、約300人の教室で3〜4人しか知っている人がいなかったという悲しい現実に直面 して愕然としました。この会場でもアンケートをとってみます。ローリング・ストーンズを知っている人、手をあげてください。結構いるので安心して話します。
高校生の頃、遅刻して階段教室の一番後ろに座ったら、隣の席の友だちに「山川、ブライアン・ジョーンズが死んだんだぜ」と言われました。それが、たぶん僕がいろんなことをやるスタートになったと思います。ブライアン・ジョーンズは、ローリング・ストーンズのリーダーだった人で、ものすごくパッショネートで、デリケートというような人です。彼がドラッグのオーバードーズで自宅のプールで水死していたと新聞にでていた。その頃、ストーンズが一番好きなバンドだったからショックなんだけど、心のどこかに、なんて格好いいんだという気持ちがありました。なぜかというと、ドラッグによる死というのは、自殺じゃないわけです。だけど事故死でもない。そういう死に方は、全く新しい死に方で、なんて格好いいんだろうと思ったわけです。すごく悲しい気持ちが50%、なんて格好いいんだろうという衝撃が50%でしたね。それで、こういう人を自分のヒーローに、彼みたいに生きたいけどそれは無理だという時に、彼をモデルに散文詩のようなものを書いてみたらどうだろうと思ったんです。それが、文章を書き記した最初だと思うんです。
このセミナーのテーマが「文ガクと音ガク」、まさに文学と音楽が渾然一体となって、分かちがたい所から自分は生まれてきたんだなという意識は今でも強く持っています。これは1960年代の終わりから70年代にかけての話なんですけど、それから急速に表現の主因というのは、変わっていくわけです。どういうふうに変わったかというと、表現されたものが表現なんだ。それ以外のものはないのも同じだ。例えば、ラカンという学者が、言語化されたものがすべてであって、言語以前はないといっています。言語が先にあって実体はあとにある。赤という言葉があるから赤という色の実体があるという、そういう考え方がそのメインストリームになっていたと思います。
アフリカのある部族は色という概念が黒と白の二種類しかない。どんなものを見せてもこれは黒、これは白としか言わない。僕たちは、この部族の人たちを見て、世界にはこんなに豊かな色彩 があるのに、2種類しか色の概念がないなんて、なんて貧しい色彩概念なんだろうと思うかもしれないけど、僕らだって色はせいぜい36色くらいしか言えない。人間の認識とは、いかに曖昧かということを証明しているのです。1970年代以降、書かれたものこそが詩である、完成した小説こそが小説である、演奏された音楽が音として固定された音楽であるという、ものすごくクリアなものをめざすという方向に加速度的になってきたと思います。実は、中原中也が好きなのですが、彼は私論を3つほど残しています。その中で面 白いことを言っています。芸術的実体というものは、表現された詩以前にある。つまり、書かれた詩は表現だけど、芸術的実体はその以前にあると繰り返し述べています。いわゆる言語論が言ってきたことの正反対なんです。書かれたものだけが表現だ。色の実体はないという、クリアな方向にベクトルが向いていたのに、そうではなくて、表現される以前に、自分の胸の中に芸術の実体はあると中也は言っていて、それはすごく古いんだけど新しいなと思いました。
20世紀は科学の世紀だったと思います。科学の世紀であり得たのは神という概念をいろんな分野で否定したからだと思います。19世紀末、ニーチェが神を否定し、フロイトが人間の心というものをテーブルの上にのせて解体していった。それから、ダーウィンが人間は神がつくったものではないと進化論を唱えた。別 々の所でやっていたことが揃って神を否定することになった。19世紀末に神が否定されたから、20世紀は科学の世紀になった。そしてコンピュータが生まれた。
僕は95年にMacに出会って人生が変わったような気がします。コンピュータというものは、すごくロジカルなものなのに、ユーザの僕はものすごい神秘を感じるんです。21世紀は、中也が言ったような芸術の実体は表現されるその寸前にある。そこに高等芸術があるという言葉を信じることができれば、すごく面 白いことが出来そうだ。中也の芸術的実体を信じられるのだったら、音楽と文学はまだまだ愛し合うことができるだろう。つまり、その実体から、あるものは音楽になる、あるものは文学になる、あるいはマルチコンテンツでいうと、ぐちゃぐちゃになって一緒になるかもしれない。そういう時代の新しい入口に立っていると思います。文学と音楽の2人の女神に横恋慕しながら21世紀もいろんなことをやりたいと思っています。

●萩野:高橋さんの「言葉をもって音を断ち切れ」という本が大好きなんですけど、高橋さんは音楽家なのに、なんで「言葉をもって音を断ち切れ」なのかと興味を持っています。高橋さんの場合は、音楽生活でいろんなスタイル、やり方を変えてきました。言葉と音の関係について、どのようなことを思われているのか。演奏される時には必ず室生犀星の詩を読むなど、非常に関わりを持って対処されています。向かい合ってるんじゃないかという気がするので、そのあたりをお話いただけたらと思います。


山川健一氏
 

高橋悠治氏

●高橋:「言葉をもって音を断ち切れ」というのは編集者のつけた題なんだけど、そういうことを書いたような気もします。覚えてないからね。考えたことを書くということはあまりしないんです。書きながら考える。その時書くことは、書いているから考えるという感じかな。「その時書いたこと」と「いま書くだろうこと」は同じじゃないわけです。覚えていて、いつも同じことを言わなきゃいけないということはないと思っているんです。作家はどうかわからないけど、作曲家というものは、あるスタイルをつくりあげると、後でそれをつくっていかなければならないという側面 があります。それは非常に危険なことです。何かをつくりあげたりしないということ、つくりあげたものにこだわらないということも一方であるわけです。
「言葉をもって音を断ち切れ」というのは、どういうことか思い出してみると、要するに、音というのは情感を表現する、そういうことで使われることが多い。だけど、そうではなくて、そこから遠ざかる、後ろへ下がって見直す、言葉を使って音がつくりあげていくものを断片化していくということなことだったと思います。その逆もあり得るわけですよね。「音をもって言葉を断ち切る」、例えば、言葉があってそれに音をつけるという場合は、言葉の持っている情感を盛り上げるというのではなくて、壊していく方向にもっていく、そういうことも成り立つわけです。

●萩野:2、3日前に三輪明宏のライブを見に行きました。あらゆる面で面白かった。説教をするんです。説教といっても、昔の強いメッセージをいうのではなく、巧みな話術で大事なことを言ってその後に音楽という繰り返しを巧みにやるんです。現代の説教節という感じで、強烈な言葉によるメッセージがあって、それを音楽で最後に定着させる。音楽と言葉がうまく双方向に動いて、その中で翻弄される自分が非常に気持ちがいい。それでいてメッセージを受け止めたという感じを受けました。文学の場合でも、体験することではないかと思います。
辻さんの「海峡の光」を読みました。文章が美しい。最近、言葉に対してきれいな形で組み立てる人は意外と少ない。言葉に対しての信頼を壊していく人の方が多いと思っていたのですが、辻さんは整然ときれいに書いています。私の勝手な読み方かもしれませんが、すごく映像的でもあり、音楽的でもあり、常に意識的に書いているのか、つらつらとでてくるのかお聞きしたいですね。

 
 
 
 
 

辻 仁成氏
辻:ものをつくる立場としては、映画であれ、文学であれ、音楽であれ、形になると文学、音楽、映画になっていくんでしょうが、だしていく時の気持ちがものをつくる中心にあるわけです。心がうえているものをつかまえて形にしていくと、ものが生まれてくるので、自分が表現していることがどう違うのか、その違いについて理解できません。説明不能なんです。それなら、なぜこの会場に来たのかと言われかねないので、なんとか言葉にしようと思うのですが、言葉はすごく窮屈なんです。だけど活字にしていくと説明できることがあるんです。
今の状況も原稿用紙があれば、なんとなくわかってもらえるものが書けるのですが、しゃべりなさいと言われると…僕はおしゃべりなんだけど、おしゃべりイコール言葉がうまいかと言えばそうではない。今の自分の難しい気持ちが自分の表現していることの外から見ているイメージに近いと思います。 自分が表現していることの表現の仕方とか、そのパッションの一番根底にあるものは、自分ではわかっているんです。だけど、それを説明できないんです。なんで映画を撮るのか、なんで文学に向くのか、なんで楽器に対してそんなに執着するのか、わからないんです。楽譜が書けないのに、スタジオでミュージシャンに伝えて一曲の形にすることはできるんです。コードを弾いたりはしますが、そのコードは習っているわけじゃない。ただ触っているうちに体がわかってくるんです。ロッカーをやっていた頃に小説を書き始めたので、文体も滅茶苦茶でいまだに批判されますが、小説の書き方、文章の書き方を勉強したわけじゃない。自分が好きな本を読んだり、あるいは書いているうちに、こういう文章が格好いいなとか、三島や太宰、いろんな人の小説を読んで、これなら自分も書いてみたいという無謀な始まりなんです。映画もそう。全くわからない。現場にいって、毎日スタッフと大喧嘩です。イメージだけで説明するものだからスタッフもあきれるんだけど、とにかくやっていくうちにカメラのレンズのことなども学習だからわかるようになる。それは技術だから。僕にとって技術は時間を短縮するために必要なものであって、自分の能力を高めるために必要かどうかまだわからない。
いろんなことを知ってた方がいいんでしょうけど、例えば、1個の打楽器しかなくても、その時の気持ちを伝えられるものが僕の中にあるかどうか、パッションがあるかどうか、それしかないと思うんです。評論家に様々なジャンルを越境すると書いていただいたこともありますが、そんなに格好いいものではないんです。ただ、映画の撮影に入った時には、スタッフに負けない気持ちで彼らを引っ張っていく。パッションがあるかどうか。それがあれば、僕に技術がなくても、彼らが持っているものを使ってくれるわけだし、それが映画だったり、音楽だったり、要するに、向かう気みたいなものしかないと思っています。
 
(セミナーでの発言から一部を抜粋して掲載しています)
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