TOPeAT`04eAT`03eAT`02eAT`01eAT`00eAT`99eAT`98eAT`97
セミナーD
「身体性の復権をめざす時代の到来」

富野由悠季(アニメーション監督)
コーディネーター:河口洋一郎(東京大学大学院情報学環教授、CGアーティスト)
TOPeAT`03 SeminarASeminarBSeminarCSeminarD03ゲスト一覧
■SeminarD

●富野:今回はみなさんの税金で呼んでいただきましてありがとうございます。しかも、高いチケットを買っていただきましてありがとうございます(会場笑)。お礼に帽子をぬぎます。所詮、ロボットアニメの監督しかしてない人間が最後に出てきて申し訳ないと思っています。

●河口:富野さんはご自分で照れ屋だとおっしゃっていますけど、マイクが武器になると思いますので今日はお手やわらかにお願いします。これが最後のセッションなので思い切り空中分解しようかなと思ってます。

●富野:いえいえ、空中分解なんかしません。ミーハーをなめてもらっちゃ困ります。

●河口:なぜ僕が富野さんと知り合いなのかというと、1981年に小松左京さんと田原総一郎さんが出ているTV番組で一緒だったのですが、それ以来、富野さんは全然変わってないですね。

●富野:ついついおだてられると踊りをおどってしまうのですが・・・。たまたまキングゲイナーというアニメをWOWOWでやっていました。午前中のセミナーAでありました仏像をスキャニングしてバーチャルに取り込む話がありましたが、驚いたのはまさにレアな部分、自分たち自身の居場所に立ち戻らないとデジタル技術を使うという意味性が発見できないという話がありました。私も自分の立場から考えました。東大の話からだとわかりにくい部分を私のような仕事をしている立場から、あるいは先ほどの高畑監督のように私よりかなり以前から3DでCGをおやりになっている方からお話をうかがうと、私のようなミーハーでやっている人間にはわからないと感じました。
60を過ぎてからコンピュータのCGを知った立場から、私なりにお伝えできればいいとなと思います。みなさんが10年後、自立して一人前に仕事ができるころになったら、スタッフになれるか、なれないかの違いになると確信しています。ちょっと身体のことを意識してくれよという話です。人間工学などという言葉もありますが、そういう言葉でせめていっても基本的にはもっとレアな話から入らないとハードウェアも開発できないらしい。いまの時代はまだ技術者も浮かれています。デジタルの時代になったと浮かれながら開発しています。半年ごとに携帯のモデルを買い替えたたらいいといって、弊害については何もいいません。無自覚に道具を開発し使わせてしまう技術者が増えています。ソフトウェアといういい加減なものを作っているスタッフもそうなんです。
なぜアニメなのかCGなのかということを考えないで、ただ好きだからというだけで職業にしていいだろうという風潮があることをものすごく気にしています。確かに好きこそものの上手なれではあるのですが、いまのデジタル技術にはとても恐い部分があり、高畑さんは私にとって神様のようなアニメーターです。

●河口:キングゲイナーのオープニングビデオがあります。(アニメ上映)
人間と道具の問題や自己管理と人間の問題等、富野さんに聞きたいことがたくさんありますが、アニメそのものは画像と音とストーリーがあるわけですが、デジタルと身体性の問題はありますか、表面的な軽いデジタルと、もっと深い問題もあるのですか、感性のことも含めてお話いただきたいと思います。


富野由悠季氏

河口洋一郎氏

●富野:線で絵を描くということの意味はあまり大きくないのですが、油絵であれ、絵を描くという作業自体は肉体的なアクションであり、理念といった部分はあくまでも後についてくるものだということです。アナログな絵を描く作業をしているアニメーターの時代というのは無意識的にも身体性のことを考えていると思います。
ただ、40年もこの仕事をしている立場としてはデスクワークとして絵を描くことと、大きなカンバスに絵を描くというのはかなり違いがあります。動画デスクで絵を描いて、自己充足していくといった身体性の問題は、我々の世代の漫画家は無意識に生理的にも身体性のことを描いているわけです。井上さんの世代になってくると絵は上手だけどその部分が抜け落ちているのではないかと思います。それはアニメーションというものが認知された時代から、作品と作者の関係というのがマスコミに乗っかっているために見慣れてしまって、その結果身体性のことが取り込まれているかということが危機管理的にステロタイプ化しているんじゃないかと思っています。
テレビアニメの仕事をやってきて、実才に新しい世代と仕事をする時代になってきたと実感しているわけです。アニメーターの中にもすでにそういう人がいるわけです。いまの時代は、実際に実写でもそうなっています。ハリウッドでも超大作の実写ほどステロタイプ化しています。アニメーション化しているわけです。スパイダーマンのアクションがかっこいいからといって、身体性を表現しているかというとそうではありません。デジタル技術の問題は技術論ではなくて、身体性という問題をどのように認識して媒体にのせていくかということが大切でそれが抜け落ちているというふうに考えます。

●河口:富野さんは10年前からワープロを使ってますよね。

●富野:ワープロを使うということで自分の中での実感が狂ってくるという自覚がありました。自分の表現を自分の身体の正面に持ってくるという作業をしないといけないということです。自分のやりたいこととの距離感をモニター上にも感じるということです。文章を書くということを考えた時に正しい活字づらを自分が喪失しているんじゃないかと思うんです。
ワープロを使い始めて2、3年で実感したのは、ワープロでポルノ小説が書けるくらいじゃないとダメだというところに落ち着きました。本当に書けるんだろうかと恐くなったということです。eATのテーマの伝統とデジタルの融合にもつながることです。伝統は何なのか、単に理念だけが継承されて来たものか、ということに対して理念なんていうものが残るわけがない。体感の積み重ねこそが伝統となって成立していくもので、その体感というのがまさしく身体性、つまり体が求めていったものが2〜3百年の積み重ねで残ってきたものであろう。ですから「簡単にデジタルにできるなんて思うな」と数年前までは真剣に思ってました。 デジタルだけの作業は理に陥るんじゃないのかと心配していたわけです。今日のセミナーAの踊るロボットのデモンストレーションを見ました。踊りの形はある地域の人々の喜怒哀楽がすべて表されたものだと思います。そのたい積をデジタル技術を使って残すというのはばかげていると思っていましたが、このイベントで話を聞いて、ここまで来たのなら許せるなと思ったのも事実です。ローカリティがどのようにあるのか、エモーショナルな部分がどのようなことなのか、踊りを真剣に考えようということです。これまで学校の先生は象牙の塔の中でしかものを考えていないので、もっと大衆の場というか、もっと愚民の中におりてきてくれたら私たちもわかるのでしょう。あのロボットよりは上手にみせようぜという人も出てくるかもしれません。それが力になっていくんじゃないのかなと思います。

●河口:富野さんの話の中には、理念と体感性の2つの極の話ともう一つ過度の理念というのがあるという気がするのですが。

●富野:理念とか思想とか理想というのは持たなければならない。どうしてか、それが志でしょということです。ただ、問題なのは志を高く持つのは大切なんだけど、あくまでもそれは(頭の中にある)理念なんです。認識なんですよ。だけど、その理想を実現したいと思った時に何が起こるかというと「ハイル・ヒットラー」になってしまうんです。これは「コミック」や「アニメーション」といったフィクションの中にリアリズムが見られるから言えるんです。若い世代の人が物語を作っていく時に、簡単に何でも素材を集めて作ってしまうことが結局「ハイル・ヒットラー」になってしまうのではないかと思います。「頭だけで考えるな」と「体感する上で気持ちがいいか、悪いかというのを大切にしよう」という話です。

 
 
 

●河口:身体性の話は、都市化が進むといまのような田園風景の中での話とすごく違ってきます。

●富野:私は都市にしか住んだことのない日本のインテリは自分たちの偏向にあまり疑念を持たずに平気でモノをしゃべっているという気がします。ヨーロッパはあんなに小さな土地なのに人があちこちに点在していて、そこに住んでいる人々は望みとは別に、田園に隣接するところに住んでいます。イギリスでもそうです。ロンドンでさえ電車で10分くらいの距離でも全部畑という景色です。それを日本のインテリは言わなさすぎる。インテリなゆえに、そういう田園風景の持っている人々の心のあり方というか、共感のあり方を理解できないと思っています。日本の中央集権は、例えば金沢出身であっても東京では金沢のことを忘れて話している人がいるんじゃないのか。妻が日本海を見ながら育った人間なんですが、裏日本で育った人間にはローカリティがあるんじゃないのかと思います。なまりが残っていることをコンプレックスに感じることを不思議に思うんです。

●河口:僕も都市化していくということに共感を感じています。都市化が進んでいくお陰でビルが画一化されてモジュール化されていって、その中で多様性に富む文化や風俗を知っていくということですね。

●富野:私の世代のインテリたちは結局戦争で負かされたアメリカしか見てなくて、ニューヨークやボストンに住んでいるアメリカ人の意見をストレートに受けて東京に移したんじゃないのかな。ボストンとかニューヨーク、ロサンジェルスを作った彼らは逆に原野を知っているからこそ、真剣に都市を作ったということを忘れているんじゃないかと。あのB29を作ったアメリカを意識し、アメリカ人の大半は田舎に住んでいるということを欠落して上っ面の文化を持ってきたというのか、私の世代のインテリがやったことじゃないのかなと。河口さんから下の世代の人々には少なくとも私の世代のやったミステイクを改善してほしいとも思います。みんな知ってますか? 戦争っていっても湾岸戦争じゃなくて第2次大戦の時はあのグアム島からB-29が飛んできて、当時私は小田原に住んでいましたが、東京空襲をやって残った爆弾を小田原にも落としていく景色を見ています。

●河口:富野さんのお話をうかがっていると身体性の問題と理念により頭で考える問題が影響しあうということもあると思うのですが。

●富野:影響されているのを実感したのは、携帯電話に代表されるデジタル技術が簡単に国民レベルのものになってしまったために、技術というのは意識から身体性を剥奪する方向に向かっているような気がします。なのに便利な道具だからと簡単に使っている人を見ると、せっかく人間という動物の身体を持っているのに早死にするんだって思います。簡単に理念の問題とか認識の問題としてとらえる時期はもう過ぎてしまって、今日からはみんなでエクササイズしないとダメなんじゃないかという危機感を持っています。子どもの頃に、弟たちのご飯を炊くのが私の役目だったんですけど、その時はご飯が炊けてくるにおいとか気配がちゃんとあって、それが目安になっていました。いま電気釜で炊くと、確かに香りはしてくるかもしれませんが、炊ける感覚というのはみなさん知らないでしょう。人間の身体の感度がかなりよかったのが退化しているんじゃないですか。モノに対しての気配りが人への気配りへの訓練になって、対人恐怖症にならなかったのかもしれませんね。

●河口:僕の理想社会というのは縄文以前なんです。においや味、五感の感覚。富野さんがいう感覚が退化しているのかもしれませんね。

●富野:私はデジタルの意味を調べてみたことがありますが、実はデジタルというのは0、1、0、1のことじゃなくて指のことなんでしょ。

●河口:デジットというのは数えるということで、それが語源なんです。コンピュータは電気信号のオンオフなのでそれを使っているんですが。

 
 
 
 
●富野:本当のデジタルという意味と違うわけですね。真のデジタルの意味に向かって我々が技術を直しましょう。デジタルというのは0、1じゃないということだと思うんです。何かをする時に「他力本願」という極めて東洋的な言葉が力になることがあります。
これまでの人が作った技術にのっかっていかないとなかなか実際の創造活動なんてできないですから。自己啓発をするためには他力本願ということも必要だと思います。アメリカが好きだから、CGか好きだからという表面的なことにとらわれているようでは、10年後の表現者になれないということです。例えば絵がわかるという感覚を持っているということ、絵を描く時の体力の消耗と文章を書く時の体力の消耗はどのように違うのか。実は全然違うんですね。キーボードだけ打てるのはどういうことなのか、ということが本当に面白くなるのが、とりあえずの体力ととりあえずの能力で作ったものでも人をだませるものができるからこそです。
自分の思いの丈をぶつけるのではなく、テレビという公共性をもっと重要に考えて作らないといけないということです。アニメも芸能であり、本来もっと楽しさ、エンターテイメントの本質を大切に考えなくてはいけないということです。いまのコミックまみれになった世代に向けて、私たち大人がもっと本質的なことを話さなくてはいけないじゃないかということで、この場を借りてこんな話をさせていただきました。本日はどうもありがとうございました。
 
 
 
(セミナーでの発言から一部を抜粋して掲載しています)
TOPeAT`03 SeminarASeminarBSeminarCSeminarD03ゲスト一覧