eAT'11 セミナーC

「メイド・イン・ジャパンのものづくり」

 

eAT'11 seminarC














































































































































































 

 

中島●おもしろかったですねぇ。セミナーB、「段取りの美学」という鷺巣先生の言葉もありましたけども、セミナーもいよいよ3つめということですので、いまゲストの紹介ありましたけども、僕とはもうeATつながりで14年目ですね。だいぶ髪の状態も進んでいます。陶芸界の谷村新司こと大樋年雄さんです。(拍手)

大樋●地元金沢からは僕だけ参加させてもらっているんですけど、よろしくお願いします。

中島●後で改めて大樋さんの作品作りにもふれたいと思います。それから金沢にはこれまでも何度かお越しいただいている鄭秀和さん。僕と同じ武蔵美大出の後輩になります。よろしくお願いします。鄭さん、リリーさん、まだ起きてないみたいですけど。

鄭●そうなんですか。後輩からも、あやまらないといけないと思うんですけど(会場爆笑) リリーさんとは昨晩の授賞式で初めてお会いしたんですけど、「ぜひ今度呑みましょう」といきなり誘われまして。社交辞令かなと思っていたら、 レセプションの30分後くらいに電話があって、「俺、〇〇っていう店にいるから来て」っていわれて。そのまま朝まで飲んじゃいました。さっそく約束守っていただいたんですけど、こっのセミナーの方が........。

中島●初めてあった日に、いきなり朝の5時までつきあうというのもスゴイですけども。鄭さんはちゃんと朝の集合時間に来てましたよね。

鄭●ここはカットしといてください。

中島●はい、カットしときます!! このところずっと世の中の景気が悪くて、僕たちは真面目にそのことに向きあって考えたりしてたんですけど、社会全体が元気がないというか、暗いですよね。このお二人のクリエイティブなお話を聞かせていただきながら、僕達はともすれば海外のクリエイターの仕事に目を輝かせたりするんですけど、日本にもこんなにすごい人達がいたんだということを共有できたらうれしいと思います。 では始める前に私の自己紹介映像をちょっとやらして欲しいんですけど。 僕は、1959年生まれ、福岡県八女郡生まれですが、1歳の時に父の転勤で大阪へ引っ越しまして、芦屋、西宮と引越しを重ねて、千里ニュータウンの幼稚園が三つ目です。千里ニュータウンを知らない人も最近は多いんですけど、 日本最初の大規模ニュータウン開発でイギリスの街並みなんかを真似したらしいんですけど。 そのころは神童といわれて、園児代表なんかもやったりして、めちゃめちゃ頭が良いということだったらしいんですけども、男の子は賢くてもダメなんですね。足が遅かったんです。(爆笑) これは人生に深い影を落とすんです。モテたいんです。でも足が遅い。さっき倉本さんが言っていた「オモロイ」ということも大阪では大切ですけど、それで子供の時に「ブルコメ(ブルーコメッツ)」になりたいと思ったんですね。わかりますか「ブルコメ」、グループサウンズですね。「ブルコメ」が「ピンキラ(ビンキーとキラーズ)」になりたいと思ったんです。わからない人、後でインターネットで調べて下さい。 その後12歳にして中学に入りました(会場爆笑)。これはフツーです。そうすると第二次成長期がはじまって......でも足が遅いんです(爆笑)。中学に行っても進化してないんですね。で、どうにかしようということで、「ビートルズ」ですね。もう「ビートルズ」がバンドで一番モテモテのチームだったんですね。SMAPではないんです。SMAPは踊れないといけないんですけど。ビートルズは自分たちで曲を作るということで、僕は中学から曲を書き始めまして、その中から、私が作詞作曲しております「ナウなショップで素敵なショッピング」という曲をお聴きいただきながらスタートしようと思うんですけども。この曲は、初めて原宿にいった時のショックを歌ったものですけども、20年間のCM監督としての作品を御覧いただきます。(作品上映)

中島●まずですね。昨日めでたくeAT名人賞を受賞されまして、まだ受賞記念の製作のことを考える時間はなかったと思いますが、楽しみに待っていたいと思います。昨年の受賞者のリリーさんも足掛け3年がかりで製作するらしいですよ(爆笑)。素敵な物を金沢とコラボレーションして作っていただきたいと思います。鄭さん、お仕事の紹介をお願いします。

鄭●私はインテンショナリーズという会社をやっていまして、「革新してモノをつくる」という意味の英語を探していたら、ないって言われまして、意図とか意味っていう単語のintentionから、インテンショナリーズという単語を思いつきまして、Wikipediaに載るくらいの言葉にしようと、0を1にしようと考えたんです。 1を10に、10を10万にしていこうと。1996年に会社を始めました。

昨日浦沢さんが、街でLPレコードを買っているのを見て、すごく僕も感じることがありまして、自分の好みというか好きな曲だけを集めて、音でつくる風景みたいなものを大学の時から作っていまして。仕事をはじめた時は、一ヶ月くらいアトリエに丁稚奉公みたいなことをしたんですが、三ヶ月後くらいに給料が出ないということが発覚しまして、アトリエという仕組みは上手くいっていないのかなと思いましたけど。実際は一ヶ月くらい働いた後で、会社をつくったんですけど、働いていたオフィスの上のフロアに。 ひんしゅくをかいました。その時のボスに絶対うまくいかないと言われたんで、「絶対うまくいってやる」と思いました。

インテンショナリーズとう社名から、奇抜なことをやるというイメージがつきまとうみたいですが、常に空間として調和させていきたいと思っているんです。 「家具から超高層ビルまで、規制などない」って書いてしまって、業界の先輩に怒られるんですけど、自分としては当初からそういうビジョンなんです。 武蔵美術大学に入って、周りの人がプロダクトやったり音楽やったりしているんですけど、なんでこれがみんな一緒にならないのかなぁと思ったんです。それで一年の時に「あっ失敗した」って思ったんですけど、ムサ美ならではの逆境をバネに変えていこうじゃないかと思ったんです。そんな事を20歳の時に決心して、7年後にインテンショナリーズという会社を作ったんです。「プロダクト」「インテリア」「建築」という職業で分けてしまうと弊害があるんじゃないかと。 生活の中では3つはシームレスなんで「今日はプロダクトしかさわらない」という日はない、空間としてとらえていったらどうかなと。今日、僕の仕事が、他のゲストのみなさんと決定的に違うのは、1分の1のサイズでプレゼンテーションできない、大きなサイズのものがある。2次元のモノを、「なんちゃって3G」で再現したり、200分の1の模型で説明したり、建築の仕事は、いくらコミュニケーションしても誤解というか施主と距離感が生じやすいので、完成した時に、イメージしていた以上によかったと言われるように、ミリ単位の仕事から、都市スケールまで考えてやっています。 図面にどうしても描ききれない「密度」や「温度」を出したいということで、コラボレーションも積極的にやっています。

僕はあくまでも3Dが本業なので、グラフィックやWebはコラボレーションでやることにして「プロの領域」をきびしく設定していきたいと考えています。「アライアンス」といっているんですけど。 もう一つのテーマは、今回のeATに近いかもしれませんが、「未来の伝統をつくる」(バック・トゥー・ザ・フューチャー・クラッシック)過去と現在と未来が全部入っているんですけれども、「いまこの時間に立ち戻って未来のボタンを作るにはどうしたらいいか」過去から延々と続いている伝統の世界に、自分は一瞬しか介在しないわけですよね。 そこを自分なりの尺度で、流れを止めるような意識で、道理(ことわり)みたいなものを誤解しなければ、過去のものと向きあうことで新しいクリエーションが生まれてくるんじゃないか。そんな風に考えています。クリエイターの人は、いままでやってきたこととか、過去の事例の上にロックオンしたがるんですけど、自分としては、0を1にしたいと考えていまして。

当社の家電ブランドもその一つで、マリオ・ベリーニ以来誰もやっていなかったし、流通もいじることで、これまでなかった新しい家電ブランドをつくるということをやってみました。「すごくラッキーだったね」と言われるんですけど、ラッキーな訳なくて、自分で販売先に出向いて、売る現場の人に思いを伝えに行くとか、地道にマメにやっています。「HOTEL CLASKA」というホテルをつくったんですけど、これは35年経って潰れたホテルを再生するというプロジェクトだったんです。ホテルって家電がいま一つだなということで。 座右の銘ではないですが、グラハム・ベルの一時間後に特許を出願した人のことは誰も覚えていませんから、やっぱり誰よりも先にやりたいなと思って。 なぜそういう風に思うようになったかと言うと、あるミュージシャンに自分が作った作品を見せた時に、「その世界ではすばらしいかもしれないけれど、知らないし、見たことない」って言われたんです。「知らない」って言葉がちょっとショックで。もうちょっとイメージして欲しいと思ったんですけど。 やっぱり「知っていただく」ということはすごく重要なんだと、さっき中島さんの作品を見せていただいた時に、「見た当時の事がもう一度思い出された」というのがありました。

なぜ、こういう作品のムービーを流しながら聞いていただいているかというと、言葉では伝えられないものがあって、15分位みていただいて、「ああなるほど、こんなことやっているの知らなかった」ということで、僕との距離感が縮まると思うんです。 その知っていただくという流れで、携帯電話をつくるんですけど、大学の時に世の中の大きな変化を感じまして、当時の建築は、必ず公共建築をやるのがひとつのゴールみたいになっていて、自分には絶対無理だなと、公共建築に替わるものがないかと考えて行きついたんです。 新しい公共性を自分なりにデザインしたかった。携帯を持つというのは、都市を所有するようなものだと思うんですね。自分が学んだものより、都市の概念が変化しているなぁと。

以前、あるキャリア(携帯電話会社)の方に真顔で、「きみ携帯やったことある?」って聞かれたことがあって、「やったことないからやりたい」と答えたら「来週からこなくていい」と言われたことがありました。その時失敗したなと思うのは名刺を破いちゃったんですね。でも、いつかやってやると思ってまして、その後AMADANAの携帯をやることになったんですけど、ある方が「これで携帯やったらいいじゃん」って、センスある方の一言で救われたこともあります。プロダクトの場合は自分のデザインを都市の中に放り投げてしまうようなものなので、建築から自分が携帯デザインにかかわる意味をつくりたくて。「デザインで意味をつくること」イコール「インテンショナリーズ」ってなれば最高だなと日夜努力しているところです。

中島●携帯にも空間をつくっている自分が関わる意味をつくっていきたいということでしたけど。3次元空間をつくるということが軸足なんですか。AMADANAはかなりめだってましたけど。

鄭●AMADANAは、ひとつの、最後の塩加減みたいに思っているんですけど。よく「AMADANAでおなじみの........」って言われますけど。

中島●めちゃめちゃ目立ったんですよ。あの携帯は。僕の友人もいっぱい持ってましたよ。

鄭●マスプロダクションの世界で、それって100万個売れますかね?と言われて、自分としては家電の世界に木目とか質感を入れていったんてす。家具と考えていたんですね。ただ木目をプロパーラインに入れるとコケると思ったんですが、木目にはこだわりたかったので、5000台限定ということで、プロダクションとオートクチュールの、自分らしさとマスプロダクトの線引きが生まれた瞬間ですね。動いている的に、ダダダと矢が突き刺さった瞬間だったんです。

中島●何のアトリエに勤めたんでしたっけ?

鄭●建築の外資系の有名なアトリエです。

中島●その上のフロアにと......わりと対決姿勢ですよね。

鄭●そうですか?

中島●僕とか川井憲次さんと違う。僕と川井さんはね、昨日じっくり本人と話したんですが、人前ですごくいい人に思われるのがメインになってるんですよ。 心のなかのダークな部分をひた隠しにするという.......でも車に乗ったらすごく悪い人になるんです。(会場爆笑) ちょっとでも遅く走っている車や、黄色信号で止まりそうな車があると、もう後ろからドンとぶつけてやろうかという勢いになっていて.......。 でも車おりたら仕事の優しい顔になっている。 鄭さんは、仕事でもファイティングスピリットが伝わってきましたけど。 伝統と歴史の流れを一瞬止めて、また流れていくという話もありましたけど、大樋さん、ここでそろそろお話いただけますか?

大樋●カッコイイおふたりのプレゼンテーションの後で、シーラカンスが出てきたようなもんですけれども。 写真は、奈良の法隆寺の百済観音像です。昨年、中国、韓国、日本の工芸家が奈良に集うイベントがありまして、中国の人は、「私たちがインドから伝えたんだよ」と言うし、韓国の人は、「私たちが作った物をに持って行って国宝にしてるんですよ」という認識なんです。僕たちは、確かに百済という名前だし、朝鮮半島から来たのかなというくらいに思っていて、日本の歴史というのをちゃんと最初から語ったほうが、アジアの人とうまくいくんじゃないかと思いまして。別にこの写真に答えがある訳じゃありませんが、手作りということで、僕たちは海外からの恩恵というのが相当あるんじゃないかなと感じたんですね。 そこで金沢のことを話します。 金沢って、裏日本、日本海側というか、いわゆる地方なんですけど、前田家が文化を持ち込んだんですけど、前田家がお茶を導入したときに、秀吉は利休を育てましたけど、前田家がつれてきた仙叟と、長次郎の四代目の最高弟子だった大樋長左衛門がいっしょに金沢につれてこられましたが、仙叟は裏千家をはじめた人ですが末っ子、長左衛門も親方じゃなくて弟子というように、外様ですから徳川家を意識してたんじゃないかと思います。 江戸の街ですけど、用水が渦巻状になっていて、風水の都市になっているんですが、金沢も同じで、黄金比率で用水が渦巻状になっています。 仙叟はこの渦巻の文様を初代長左衛門に使うように言うんです。渦巻きには社会を発展させるという意味も込められていたようです。仙叟のお屋敷の瓦にもお墓にもこの渦巻きが入っています。 この写真は東京大学の赤門です。実はこの敷地は、加賀前田藩の江戸屋敷でして茶室がありました。いまの国際外交のように、社交で茶会が盛んに行われていて、仙叟が茶会の企画をし、その注文をうけて長左衛門が茶碗を焼き生活をさせてもらっいたんです。茶会で出した茶碗をお土産に持ち帰ってもらうために、大小の箱に二重にして入れ、その時の思い出に残る言葉を蓋の裏に箱書きをして、和紙や水引で飾り、漆塗りの台にのせてプレゼントしたんですね。こうしてプレゼントすることを献上というんですけど、茶碗を贈るのに、木工や、和紙、水引、漆といったいろんな工芸の力を合わせて、その場を乗り切ってきたんだなと思います。究極は、お寺や神社の中で腕をふるってきたんだと思います。 お茶は、そのもてなしをありがたいと思う気持ちで成り立っているんですけど、僕も茶碗をつくる時は、手でひとつの形をつくっていって、カマドで焼くときも神様に祈ります。祈らないとうまくできないような気がするんです。それで赤松で焚いて、真っ赤に溶けてきた茶碗をつまみ出して、水で急冷するのが楽焼の特長なんです。 黒い茶碗の場合は、サヤという大きな器の中に茶碗が入っていて、炭で焼くんですけど、真っ赤になったら同じようにつまみ出して水で急冷すると黒い茶碗ができます。ちなみにこの黒い茶碗の原料になっているのは、金沢城の石垣にもつかわれている戸室石です。「楽焼」と漢字で書くと、茶碗を焼く技術のことですが、英字でRAKUと書くと、窯で焼いた茶碗をつまみ出して急冷する焼き物のことです。 僕は、世界のいろんなところで、楽焼を作ってみせるということをやっています。中国、韓国、アメリカなど各地で実演してきました。コロラドでやった時は、窯の温度があがらないのでおかしいなと思ったら、高度が高いので酸素の濃度が薄かったんです。そういう時は、その土地に合わせて作っています。その景色にあわせて俳句とか詩も作っています。その土地をイメージしてから、茶碗をつくるようにしています。 (過去に携わったインテリアデザインも紹介)

中島●ありがとうございます。鄭さんどうですか、けっこう鄭さんと仕事かぶってましたけど。

鄭●本当ですよ。かぶさってますよ。器の人かと思っていたら......(爆笑)

(文責 事務局)